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zoom RSS 終戦の時―私の切れぎれの記憶

<<   作成日時 : 2011/08/11 09:11   >>

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 昭和20年8月15日― 大人はなぜ泣いているのだろう、母も伯母さんも、近所の人々やあの怖い隣の酒屋のおじさんまでが・・・・・皆が集まった一室のラジオがガーガー音を立てています。その中から甲高い声が混じって聞こえてきます。 「子供はあっちにいってらっしゃい!」と怒られました。 なんの事だかさっぱりわかりませんでした。 戦争が終ったんだ、という声。 

 疎開していた石川県の田舎町、ここは空襲もなかったから夜でも煌々と電灯がついていました。東京では空襲警報のサイレンが鳴るたびに母が居間の電球を防空燈にかえて電灯に黒い布をかけていたのを憶えています。

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    1945年(昭和20年)8月15日付け 
     朝日新聞の戦争終結記事。


 あれから66年、保存してあった新聞の紙面は大分傷んではいますが当時の状況が生々しく伝えられています。あの時大人たちがなぜ泣いていたのか、私がこれを理解したのは終戦から大分後になってからの事です。


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 同日の朝日新聞に見られる大本営発表の戦果の記事(左)

 戦争が終ったのに何かちぐはぐな気がしてなりません。 

 思うにまだ敗戦を認めない軍部や戦争遂行を掲げる人々をおもんばかっていたのでしょうか。 終戦直後のごたごたがよくわかる気がします。











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   家の押入れにある戦争の遺物: 防空電球、父の出征の際の奉公袋、うしろは戦前からの日の丸の旗

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   いまでも残る近くの防空壕跡。 戦後になって数人の男達が闇物資だろうか、何度も運び入れているのが見られました。


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 話は終戦時に戻ります。
 
 その2年前?の事だったでしょうか、東京は危ないと神奈川県の辻堂の祖母の家に移りました。

 真夜中に空襲警報、Kさんの手に引かれて近くの防空壕へ急ぎます。 B29が近くの海軍の厚木基地を爆撃しているのです。夜空に幾条もの光の束が交差しています。これは後で機影を探す探照灯とわかりました。

 きれいだな、と見上げているとKさんがそんなもの見ていないで早くとせきたてます。「やった!」火の玉がくるくると落ちてきます。「撃墜した」と周りから声、(実は体当たりした日本の飛行機だったようです)

 防空壕では眼と耳を押さえ膝をお腹につけ前かがみに座ります。こうすれば爆弾が落ちても爆風で鼓膜が破れたり、眼が飛び出たり、お腹が破裂しないと教わったからです。

 昼間も戦闘機の銃撃があり、屋根を貫いて祖母の部屋に2発も弾丸が飛び込みました。枕の中のソバガラが部屋中飛び散っていて、母がぶつぶつ言いながら箒で掃き集めていたのを憶えています。

 米軍が上陸してくるーここも危ない、 私たち一家と従姉妹たち親戚はそろって石川県に疎開したのです。 父も伯父も出征中でした。

 疎開先の商家の2階の大部屋で皆で暮らしていました。 毎日が大豆と麦が入ったご飯、ただ、大根、茄子などの野菜は豊富にあったと記憶しています。 外に遊びに行けば「やーい、疎開っ子!」と石をぶつけられたり、うしろから蹴飛ばされ泣きながら帰りました。 そのせいか、田んぼにイナゴを取りに行ったこと以外、外の風景は記憶にありません。

 戦争が終ったがアメリカ軍は日本人を捕まえて殺してしまうそうだーしばらくは疎開地にいましたが、それが風評とわかり私たちは東京の焼野原に戻りました。

 幸いにして、我が家は被害を免れていました。 ある朝、母が庭を掘っています。 手伝ってと言うので、姉と駆け寄ると、母は新聞紙にくるまれた食器を次々掘り出していました。これが私たちの毎日の糧に代わっていったのです。

 あんなに恐れられていた米兵が親切なのでビックリしました。 ハロー!G I ギブミー チョコレート! これは私が初めて知った英語でした。 彼らは何かクチャクチャ咬みながら小さな子から順番にキャンディやチョコレートを配ってくれました。 勿論、私は列の前のほうです。 

 彼の手からひったくるように取ってその場から全速力で逃げます。 さもないと、年上の子(多分戦災孤児だったでしょう)に脅かされて盗られてしまうからです。 もらったチョコレートを食べていると、「こじきの真似はお止めなさい!」と母に頬っぺたを引っぱたかれました。

 父が復員したのは、たしか昭和22年頃でした。

 「大きくなったね」

 抱き上げられた私は 「この人誰?」 ときょとんとしていたようです。 後から皆に笑われました。


                           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 朝鮮動乱、 ベトナム戦争、 中東戦争やアフガニスタン・・・・ 太平洋戦争が終って私がこの年になるまで、いくつもの戦争がありました。

 私が身近に経験したのは、 企業の駐在員として中東で勤務していた時のイラン・イラク戦争と湾岸戦争(直後)でした。 浮遊機雷がいくつも流れてくるアラビア湾で、海軍が見つけ次第、処理する爆発音を聞きながら仕事をしていました。そばの海面に浮遊する海藻や浮遊物を見ても「機雷か」と身をすくめたものです。

 ある時はほんの200メートル先で爆破処理した機雷の黒煙を見上げながら、いつになったらこんな危険な日がなくなるのか、その日を願っていました。  東京の家族には心配させまいと何も知らせませんでしたが、毎日仕事に出る前はベッドの上に遺書を置いて出たものです。

  何時、何処から、どういう風に襲ってくるか判らない浮遊機雷、げっそりした顔で帰ってきた私に「おいお前、足はちゃんとついているだろうな」 心配した同僚の言葉・・・・・

             戦争、人類が この愚を悟るのは 一体いつの事になるのでしょうか?



                                              (無断転載、使用はご遠慮下さい)

 








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内 容 ニックネーム/日時
細切れとおしゃっても、ずいぶん詳しい事を覚えていらっしゃるので、感心しました。だって、まだ就学前でしょ? 少しお姉さんの私は鳥取県の米子に疎開していました。皆生温泉の近くの小さな村でした。私はその地で一年生になり、すぐ終戦でした。だから、かなりハッキリ覚えています。でも、同い年の男の子の従姉弟は、まったく霞がかかった状態のようです。古い新聞や、奉公袋!忘れていたけど、よくとっておありにななりましたね〜、私は寅年なので、小さな子供の頃から、親に手を添えられて千人針をした覚えがあります。今年の暑い終戦記念日は、私も殊更あの、遠い夏の記憶が戻りました。今高三の孫は中一の時の夏休みの研究課題で、戦争の記憶の或る人の話をまとめる・・・と言うのを書くため、泊り込みで私の話を聞きに来ました。語り部気分で一夕米子時代の話をして聞かせました。
アズ
2011/08/20 17:52

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